葉蘭は蘭の群れの中で

Aspidistras Among the Orchids

Written by Empy
Translated by Chicory







 アーサーは時々、ベッドの中で寝返りを打っては天井を見つめて、自分はどこで道を誤ったのだろうと思いを巡らせることがあった(というよりも、暗闇の中で上を見ても何も見えないので、自分が見つめているのが天井である事を願いつつ、と言った方がいいかもしれない。様々な体験を経た後で彼は、例えば見上げればそこにいつでも天井があるといった当然のことを当然だと思ってはいけないと考えるようになっていた)。そういう時、きまってフェンチャーチは彼の方に寝返りを打ち、心配事は忘れて寝た方がいいわ、と地球上のあらゆる女が使うあの声で言ったものだ。最初の頃、アーサーは彼女が如何にして彼の気持ちを知り得たのかわからずどきどきしていた。もしかして彼女は、秘書がインデックスカードをめくっていて余計なものを見つけ出してしまうように自分の考えをめくって読めるのではないか、そんなことを思って。
 フォードはそんな、見つけられたくない部類のカードだった。酒の染みと焦げ跡と口紅の跡のついた、蟲惑的なショッキングピンクのカード。安物の緑のインクで一面殴り書きに覆われたカード。彼こそは蘭の群れの中の葉蘭だった‥‥それとも逆だっただろうか? 葉蘭の群れの中の‥‥?
 アーサーはその思考を脇に押しやった。フォードを葉蘭だの、ましてやインデックスカードだのに例えるなんてばかげている。フォードは、実際にそれそのものだったのだから。
 彼はそうやってアーサーの心に棲み着いて離れなかった。昔からそうだった。ヴォゴンが地球を破壊しに来るよりも前から。人当たりの良いフォード。機知に富んだフォード。フォードが物理学者達をこき下ろす時、アーサーの理性はねじれ上がり力無くすすり泣いてその侮辱的な言動に答えることを拒み、外界との接触を断ってしまうのだった(時々は本当に働きを止めてしまうこともあったらしく、そんな時彼らは酔っぱらった一体の手足の塊と化して千鳥足で帰途につき、最終的にどちらかの家の玄関に倒れ込むことになった)。
 厄介なことに、アーサーは段々フォードがいない禁断症状に悩まされはじめた。彼はタオルを抱きしめることがあった。気が滅入るほどにあたりまえのテレビのリモコンを使って、サブイーサ・ネットワークに接続しようと試みた事もあった。そして何より決まりが悪かったのは、フォードを夢に見る事だった。
 フェンチャーチはこれを知らんふりでやり過ごしていたが、一度だけ、アーサーの朝のお茶に「あなた、寝言で彼のこと呼んでたわよ」という苦い一言を添えて出したことがあった。




 そして、フェンチャーチは元からいなくなった。あのハイパースペースでの一瞬の閃きと共に。




 星間旅行の時は恐ろしいほどゆっくりと流れていく。自分の分泌物を売ることの目新しさが薄れていくにつれて、アーサーは何事にも度を失うようなことはなくなっていた。たった一つのことを除いては。普段使われない記憶保管庫の奥、子供の頃の思い出と半ば忘れかけた掛け算表の下に埋めてしまいたかった、一つの記憶のリンク。フォード。またしても。ばかげた名前の、ばかばかしいまでに悪運の強いフォード。見た目通りではなかったくせに、結局見た目通りでしかなかった男。
 アーサーは、専ら触感に頼ってフォードを覚えているようだった。もっとも、彼の脳の物事を記憶しておく部分は少し酔っ払って貪欲になっていたが。アルコールのもやを通して、彼はフォードの髪に指を絡ませて目を覚ました日のことをおぼろげに思い出した。もっとも、その一方で両足が6フィートもあるクリスマスツリーの電飾に絡まっていたことと、もう一方の手が体の下で痺れきっていた状況を考え合わせるととてもロマンティックとは言い難かった。それでもその記憶の層の一番上に広がっているのは、あの特別硬くも特別柔らかくもない髪の感触なのだった。
 またある時、かなり酔っぱらったフォードがアーサーの腕を掴み、手首の内側の皮膚の薄いところに親指をぎゅっと押し込んでにっと笑ったことがあった。「俺とお前の脈、おんなじだな」
 それは君が自分の脈を感じてるからだよ、僕のじゃない‥‥そう言ってしまった後で、フォードの謎めいた笑顔が消えていくのを見て、アーサーは自分を蹴りつけてやりたい思いにかられた。
 全く、ばかだったな。もう何度乗ったか思い出せない移送用ポッドの中にいま一度横たわり、プラスチックの丸天井を見つめながらアーサーは振り返った。十代の子供じゃないんだから。しかもあれじゃ、十代の女の子だ。よけい恥ずかしい。




「あいつは自分のタオルの在処がわかってるフルードだぜ」
 フォードはいつだってそう言われていた。そしてアーサーの方はというと、対照的に、日々自分の頭の在処がわかっているだけでもありがたいと感じていた。
 しかしながら、時には彼ですら自分のタオルがどこにあるか知っている時があった。今この時それはフォードの裸の腰に魅力的に巻きついており、そして一枚のタオルが何か情念らしきものを感じられる限りにおいて、アーサーのタオルは幸せで天にも昇る心地だった。
 そういうことについては、フォードはこつを心得ていた。全く、彼は珍妙なことのこつを色々と沢山心得ていたのだ。胸の悪くなるようなこと(金魚と炭酸水を使ったトリックなど)から、すばらしいこと(舌を使った様々なこと)まで、そして最終的にはもちろんアーサーが全ての恩恵なり被害なりを被るのだった。
 この日、アーサーは偶然にも、自分の頭がどこにあるかもわかっていた。彼の頭は自分のタオルの上に、従ってフォードの膝の上に休まっていた。フォードの指が髪をつまんでいじっているのを感じながら、アーサーは蚤は見つかったかいと訊こうかどうしようかぼんやり考えていた。彼は結局、a)フォードは皮肉を理解しないかもしれないし、b)万が一容赦ない馬鹿正直な答えが返ってきたらかなわないと思い、訊くのは止めにした。
「フォード?」
 彼は遂に、目の前の膝頭をじっと見つめながら言った。
「これって、おかしいことなんだろうか?」
「んん?」
 と聞き返したフォードの声の調子からして、彼はアーサーの話に耳を傾けるよりも「ガイド」のきわどい項目を拾い読みする方に気を取られているようだった。
「おかしいって?」
 しばらく考えてからそうつけ加える。フォードは足を動かし、アーサーの頭をいささか乱暴に揺さぶった。
「そうだよ」アーサーの心は、おつきあいというものに関する言葉たちが通り過ぎていくのを捕まえ、なんとか意味の通じる文章に縫い合わせようと力なく努力していた。「つまり‥‥」彼の声は少し小さくなった。自分の声がいやに響いてきこえた。「異星人と寝るのっておかしいことだと思うか?」遂に口に出してしまうと、急スピードで飛び出した言葉同士がぶつかって事故を起こしそうになった。
「誰が異星人と寝てるんだ?」フォードは興味をそそられて聞き返し、証拠となる触覚か砕けた骨の欠片でも探すかのように部屋を見回した。
「いや、ほら」どうしてわからないんだ。「君だよ。それに僕も」
「楽しいよ」とフォードは言った。この上なく不合理な、この上なく彼らしい言い方で。「気持ちいいし」と、彼はゆっくりと微笑んだ。
 それを見て、アーサーはこの問答をすっかり諦めることに決めた。どこまでいっても筋の通ったものになりそうにない。
 不可解なことだが、こんな支離滅裂な会話がアーサーには恋しかった。確かに、宇宙には人工的にフォードを(もっと率直に言えば、緑色のオカピから生き別れの配偶者のクローンまで何でも)再構築できるような惑星もあった。だが、そんなのは浮気と同じじゃないか。だいたいそうしたところで元のフォードと同じにはならないだろうし‥‥恋の病に苦しむ者らしく、アーサーはそんな、少し混乱した言い訳を作っていた。
 どこかの惑星に降り立って、次にまた宇宙に飛び出していくまでの間足留めをくうような時、アーサーは大抵バーで時間を潰した。うまいビールを入れるなどといういかさまの概念のある星は十に一つも無かったので、彼は敵意があるとしか思えない色をした飲み物を目につくまま次々に試していった。そして、首尾よく酔っ払えた時、彼は周囲の人々(人の形をした、人らしさの垣間見えるモノたち)の中にフォードに似た者を見つけ出そうとした。実際何度か見つけはしたのだが、そんな時彼は、彼らにアプローチするには自分があまりにシャイで、あまりに‥‥まあ、ストレートすぎることを思い知らされたのだ。彼はパイントグラスの中の、何だか知らないが自分が飲もうとしている飲み物を見つめながら、自分とフォードは一体どういう間柄だったと言えばいいんだろうと思いをめぐらした。共生関係? 二つの魂の調和? いや、そんなものじゃない。そんな神々しい名前をつけるには、いつだって少しばかり肉体的すぎた。ハープの音色ではなく、けたたましいロックミュージック。天使の光輪ではなくベレー帽‥‥
 蘭の花に囲まれた葉蘭。
 葉蘭がどうしたっていうんだ、アーサーは心の中で毒づいた。なぜこんなにも葉蘭が思考の隅々にまとわりついてくるのか。曲がりくねった思考の道筋を辿り、思い出の欠片をあちらこちらで拾い集めた挙句、彼はようやく思い出した。あの温室だ、そうだ。おかしな、どうやっても不自然な逢瀬。本で読んで自分がそれをしているところを想像してみはしても、あれは誰も実行には移さないだろうという類いの。なぜなら、そこまで足を高く上げたら大抵どこか傷めてしまうからだ(アーサーもフォードも体を傷めはしなかったが、植木鉢をいくつか蹴倒す羽目にはなった)。
 彼はその惑星の名前がよく思い出せなかった。一つには彼がその名前を文字で読んだことがなく、耳で聞いた限りでは誰かがコーヒーと蛾を口いっぱいに詰め込んだまま「シェフィールド・ユナイテッド」と言っているように聞こえたからであり、もう一つには同時期に刻まれた他の記憶がその名前を踏みつぶしているからだった。大体、温室でのハンサムな男との淫らな思い出に気持ちよく浸っている時に、誰が惑星の名前なんか気にしていられるだろうか。
 全く、淫らという他はない。アーサーは神経質なたちではなかったが、この時彼とフォードがしたことは確実に「おいおい、それ本気でやるつもりなのか?」のカテゴリーに分類される事柄だった。人に吹聴して回ってもよかったのだが、実際にしてみた結果、周りにいる殆どの異星人は、カヌーと六つの金柑の実が関わっていない事柄には何の意味も見いださないという、アーサーとは違った価値観を持っていることが判明した。
 お前達だって、フォードと抱き合ってみたら金柑なんて果てしなくどうでも良くなるさ‥‥アーサーは心で思った。
 フォードのおかげで(もっと厳密に言うなら、フォードの手と舌のおかげで)、アーサーはその温室で、神と長い対話をすることになった。主に様々な喘ぎ声からなる一方的な対話で、中には彼が自分で口にしながら発明した喘ぎ声もあった。フォードはいつもどおり、ふしぎなくらい静かだった。アーサーが、それは果たして合法なのだろうかと思うような言葉を時々呟く以外には。
 このことを思い出すたび、アーサーの脚は少し震えた。フォードはいろいろと妙なことをアーサーにしてやると言っては実行に移した(今もそうしているのだが)。アーサーの脳は、一日中泡のはじけ続ける小さな幸福の水たまりの中に溶けていくかのようだった。あの温室では、その泡は引き続いて来る花火のプレリュードとなり、アーサーの目をくらませ、更にはうっとりするような痙攣を引き起こした。
 温室から忍び出る時、フォードは折れた蘭の花をアーサーの耳の後ろに挟んだ。アーサーは気恥ずかしくなった。今にもゴーギャンが駆け寄ってきて自分に腰布を巻きつけ、果物籠を腕の中に押し付けていくのではないか、そんなことを半ば本気で期待してしまった。




「お疲れさまでした、デント様」背の高い三本腕のエイリアンが、かすかに横に揺れながら言った。「人工メモリーバンクへのご寄憶に感謝致します」
 アーサーはエイリアンの方をまっすぐ見ないまま、血の気の無い微笑みを浮かべて頷いた。測定ポッドの中で不自然な体勢を取っていたせいで痺れた両足が、彼の全体重を支えるという問題に取り組んでいた。すこし頭がくらくらするように感じたが、それは多分ラボの空気が酸素をあまり含んでいないせいなのだろう。罪悪感のせいなんかじゃないぞ。アーサーは、頭の中で「ミリタリー」と叫び続けている遠い声に怒鳴り返した(それともあれは「異議あり」だったのだろうか?)。
「何かお持ち致しましょうか?」
 一本の手でメモを取りながら、残る二本の手を女司祭か老婦人がよくやるようなスタイルで組み合わせてエイリアンが尋ねた。
「ええ」アーサーはゆっくりと考えて答えた。「葉蘭を一鉢いただけますか」



End.





 訳者あとがき:


 淡々とした中から切なさと情熱がじわじわと伝わってくる、何だか夢のような話です。どこか焦点の合ってない、少しだけ壊れたような、でも正気のアーサーがあまりにもアーサーらしくて泣けてきました。ラストのアーサーはまるで何もかもに先立たれて一人置き去りにされた老人のようです。数あるH2G2フィクの中でもすごくSFらしい(笑)異色の作品。大好きです。

 Thank you to Empy for let me translate this fic and use it on my site!
 Updated 10 November 2008