再度警告:

グランテール×アンジョルラス。男同士の性描写を含みますので、苦手な方はお読みにならないで下さい。

































たとえ心が灰になっても





 誰かがぼそぼそ話す声で、僕は眠りから覚めた。


 酒の抜けきっていないくらくらする頭をのっそり上げると、声の主がびくりと肩を震わせてこちらを振り返った。プルヴェールだ。もうみんな帰ってしまったのに、ここで何をしているのだろう。
「‥‥お、起きてたのか、グランテール」
「今起きた」
 少し不機嫌な声を出していたのかもしれない。彼はその波打つ髪の下できまり悪そうに目を伏せた。
 僕は目をぎゅっと瞑って、思い切り伸びをした。何か悪い夢を見ていたような気がした。遠ざかっていく何か大切なものに必死で手を伸ばしていた。一生懸命に、喉がかれるほどに叫び続けていた。だがもう思い出せなかったし、無理して思い出したい内容でもなかったように思えた。
「プルヴェール、君はもう帰れ」
 僕はその声で一気に目が覚め、勢いで漠然と残っていた夢のイメージはぱっと霧散した。プルヴェールの話し相手がアンジョルラスだったことに、僕はそのとき初めて気がついた。
「だけど‥‥」
 プルヴェールはまだ何か言いたそうにしたが、アンジョルラスにきつく睨まれて身をすくめた。
「帰れ、プルヴェール」
 一瞬の間の後、プルヴェールは小さく「帰るよ」と呟き戸口へと踵を返した。
 出ていく間際、彼は一度足を止めて僕になんとも言えない奇妙な目つきで一瞥をくれ、すぐにそれを振り切るようにして早足で出て行った。僕は戸惑いながらその後ろ姿を見送り、ドアの閉まったあとでアンジョルラスを振り返った。
「なんだアンジョルラス、あんなに強く言うなんて君らしくもない。プルヴェールと何を話してたんだ? かわいそうに、行っちまったぜ」
「君の知ったことじゃない」
 きっぱりと切り返した彼の口調に、その乱暴な言葉と裏腹におかしな雰囲気を感じて、僕は顔をしかめた。うさんくさい、と言った方がいいか。先程までのプルヴェールに対する、いつもならどちらかというと僕に向けられるような冷たさが消え、好意というか、暖かみのようなものが垣間見えたように思えた。
 僕は冷笑と共に自分でその考えを打ち消した。あり得ない。
「グランテール、君は僕が好きか?」
「もちろん好きだよ」
 机に突っ伏していたせいでぼんやりと痛い首の筋を伸ばしながら僕は即座に答えた。何だかまだ眠っているような気分がした。僕の答えにアンジョルラスは満足したようにテーブルの端にもたれかかり、両手をポケットに突っ込んで僕の方を見つめた。ふと、なんでそんなことを聞くのだろうと思って僕は口を開きかけたが、アンジョルラスが次の言葉を言う方が早かった。
「どのくらい?」
「おい、どうかしたのか、アンジョルラス」
「答えてくれ」
「君が知らないはずないだろ? 僕は君をこの世で一番愛してるよ」
「そうか」
 ふと笑ったような声が聞こえた。それが僕の聞き違いだったかと考える間もなく、アンジョルラスが言葉を発した。
「じゃ僕を抱いてくれ」


 



「‥‥い、嫌だ。アンジョルラス、僕はそんなことは望んでない」
 僕はしばらく放心した後、やっとの思いでそれだけを口にした。両手をポケットに深く突っ込んだまま、アンジョルラスは平然と言葉を返した。
「僕が望んでいると言ったら」
「そんなのは嘘だ!君は僕を軽蔑するだけじゃ足りないでからかうつもりなのか? やめてくれ。僕は君を崇拝してる。だがそれをそんな‥‥そんな下劣な欲望と混同しないでくれ」
「君がそれを下劣だと言うのか?」
「なあアンジョルラス、聞いてくれ」
 僕は突然泣きたくなって声をあげた。まだ夢の中にいるのかもしれないと思いたかったが、残念ながら夢と現実の区別がつく程度には酔いが醒めてしまっていた。アブサントの見せる陰鬱な夢には慣れきっている僕だったが、こんなひどい悪夢を見たことはなかった。
「僕は君を‥‥君を本当に好きなんだ。愛してるんだ。ひざまづいてもいいよ。僕だって本気でものを言うんだ。普段だって別に嘘をついたりしないさ、僕はいつだって正直だ。でも真剣にもなれるんだ。君を好きだっていうのは、女や酒を好きだというのとは別物だってことぐらいわかるだろ? 第一君は、色事なんかには興味なかったじゃないか」
「勿論だ」
 アンジョルラスは吐き捨てるような口調で僕の言葉をさえぎった。僕は黙った。
 突然落ちた沈黙が、僕にはたまらなく不自然に感じられた。店の者はどこに行ったんだろう。もう床についてしまったんだろうか。だが深夜とはいえ、客を中に残したままで? もうこの学生の集会は普通の客扱いされていないのかもしれない。多分、酔って眠ってどれだけ起こしても朝まで起きないことのある自分のせいなのかもしれなかった。
「女に興味はないさ」
 アンジョルラスは唐突に言葉をつないだ。
「抱くどころか、目を向ける気すら起きないね。長いあいだ、それは必要がないからだと思っていた。だが違った。男も女も抱きたいと思ったことはないが、それでも身体が何かを求めていた‥‥何かが必要だった」
「そんなもの、永遠に気がつかなければ良かったのに」
 そう小さく呟いたとき、僕は目の前にあった事実にやっと気がついて思わず怒鳴り声をあげた。
「プルヴェールか!」
 アンジョルラスは静かに「そうだ」と答えた。
「彼が教えてくれたよ」
「あの野郎!」
「彼にしては勇気ある行動だったと思わないか?」
 アンジョルラスは、こんなことを話し合うのは時間の無駄だと思っているかのように面倒そうに肩をすくめた。あまりに思いやりのなさすぎる言い草に、僕は怒ればいいのか呆れればいいのかわからなくなった。
「勇気だって!君の言う勇気ってのは何だ、そんな軽々しく使っていい言葉じゃないだろう。君はいつも何て言ってる。我々には崇高な目的があり、命を賭して‥‥違う、僕はそんなことが言いたいんじゃない」
「果たすべき目的があるからこそ、こんなことに悩まされている余裕はないんだ。こんな厄介なもの、さっさと始末してしまいたい。‥‥だから君に頼むんだ、なあ」
 選択の余地などなかった。何故もうプルヴェールでは駄目なのか、また何を彼らが話していたのかも気になりはしたが、それよりも頭の中は怒りでいっぱいだった。それでは彼は、これまでに何度もあのプルヴェールに抱かれていたのだ。毎日のように顔を合わせていながらそのことに気づかなかった自分に心底嫌気がさし、プルヴェールにはただ嫉妬のみがあった。
 いつの間にか、アンジョルラスは腕を組んで僕の傍らに立っていた。殆ど消えかけている薄明かりの中で彼はこの上なく美しかった。
「グランテール」
 今や彼の声には軽蔑など微塵もなかった。包み込むように優しく、あたたかく、心地よい響きであふれていた。昨日までの僕なら、命を捨ててでも欲しいと思った全てがそこにはあった。
 でもこんな形でじゃない。僕がほしかったのはこんなものじゃない。
「君は僕を何だと思っていたんだ? 生身の人間ではないとでも?」
「君は天使だ。僕のアンジュ」
「僕は人間の男だ」
「違う。いやそうかもしれない、でも違う!」
 アンジョルラスが僕の肩に手を置いた。彼は僕の目を挑むようにじっと見つめたままで、手を肩から腕の上にすっと滑らせ、僕の手に重ねた。軽く握りしめる長い指の感触に、僕の心は恐怖と歓喜の両方向に引っ張られて空中で捩じ切れそうになった。彼がそのまま僕の懐にすっと入ってこようとしたので、僕は反射的にぎこちなく後ずさった。
「アンジョルラス、君はこんなことしちゃいけないんだ‥‥」
 彼は、まるで僕がおかしな冗談を言ったかのようにくくっと猫のような笑い声を洩らし、僕の手をくるみ込むように握ったまま更に僕の方へ歩を進めた。
「なあ、君は僕を好きだと言ってくれたんじゃないのか?」
 アンジョルラスは懇願するような口調で言った。だがそのわざと譲ってみせた態度の裏には、彼の望みなら、それが何であっても僕は決して拒めないという確信があった。そしてもっと悪いことに、僕もそれが本当だと知っていた。
「頼む」と、彼は言った。「助けてくれ」
 僕はいやだと言いたかった。だがものを言おうと口を開いた時、僕は自分が別の言葉を言うのを聞いた。
「僕の部屋は、この隣だ」
 アンジョルラスは、僕にやわらかく微笑みかけた。
 自分の美しさがどんなに強力な武器であるかを知り尽くした微笑みを。
「ありがとう、グランテール」


 



 次の日ミュザンで、僕は仲間達の集まっている奥の部屋に行かずにフロントのカフェで一般客達に交じって酒を飲んでいた。
 入り口のドアの開く気配にふと顔を上げると、入ってきたプルヴェールとばったり目が合った。彼は僕を見て一瞬ぎくりとしたような顔をしたが、怒ったような足取りで大股にこちらへ近づいてくると、僕を見下ろして何の前置きもなしに「それで?」と囁いた。僕は彼をじっと見つめ返し、しゃがれ声で囁き返した。
「それで、だって? 僕に拒否権があると思うのか?」
 僕の声は僕自身の耳にもはっきりと絶望的に響いた。プルヴェールは悲しげに寄せていた眉を更にきゅっと引き寄せ、涙をこらえるような声で呟いた。
「僕が馬鹿だった。天使に人間のルールが通用するわけがないのに」
 プルヴェールが踵を返して早足でカフェから立ち去る寸前のほんの一瞬、僕と彼との間に共通の意識が走った。それはもはや嫉妬でも、共感でも、同じ女を抱いたことがあるとわかった時の男同士が抱く一種歪んだ連帯感でもなく、ただ自分を蔑んで泣くだけの鬱病患者が二人できあがっただけだったが。


 



 アンジョルラスは不定期に僕の部屋を訪ねてくるようになった。何日おきとも何曜日とも決めずに、こっちの都合などおかまいなしで、ただカフェで一言、家に帰れと僕に命令した時がその日だった。そしてやってきては、言葉を交わす手間もかけずに口接けを求めた。
 彼の熱い吐息を唇の上に感じ、汗ばむ白い裸身を抱きながら、僕は必死で自分が何をしているのかを考えないようにしていた。ただひたすら彼の求めるままに愛撫し、彼の欲しがる場所に舌を這わせ、そのしなやかな身体に没頭した。アンジョルラスは、昼間の貞潔な顔からは誰も想像できないような蕩けるような目をして僕の下で乱れた。そして気が済むと、先ほどまで僕の指に絡まっていた柔らかい巻き毛をきっちりと束ね、服を非の打ち所なく整えて、いつもの青ざめた顔に戻って部屋を出て行くのだった。
 いっそ完全に嫌われてしまえればと、そんな衝動にかられて彼を手荒く扱うこともあった。だが、僕がどんなに無理だと思うようなことを要求しても、彼は驚くべき柔軟さでためらわずそれに応え、快楽へと昇華させた。勿論、僕が彼を本気で傷つけることなどできないと知ってのことだったのだろうが。
 彼が行ってしまうと、僕は憂鬱が襲ってくる前に急いで酒を飲み、眠ろうと努力した。
 そんな夜、僕は決まって悪夢を見た。
 うなされて目が覚めると、どんな夢だったのか何も覚えていなかった。ただ死にたいような自己嫌悪だけが残った。


 



 プルヴェールはカフェの一隅に席を占めて、アンジョルラスの歩くのを、話すのを、また黙り込んでいる様子を、遠くから密かに見つめつづけるようになった。僕以外の、理由を知らない連中には、それはただ空を見つめて何かを夢想しているだけだと思わせていた。そしてアンジョルラスがいない時はひたすら詩作に励み、その作品を決して誰にも見せようとしなかった。
 あまりに意固地になって隠すので、バオレルが一度その詩を読んでやろうと彼に絡みかかったが、黙ってうつむいたプルヴェールが目に涙を溜めているのに気がつくとびっくりして引き下がった。「今度のは重症だな」コンブフェールとクールフェラックのテーブルに避難したバオレルが小声でこぼすのが僕の耳に聞こえた。
 重症だった。だが彼は自分の仕事を疎かにすることもなく、信じられないほどの精神力でジレンマに耐えていた。
 当のアンジョルラスは何も変わらず、僕に対しても、プルヴェールに対しても、他の誰に対しても、おそろしいくらいこれまでどおりに振る舞っていた。それどころか、昼間の彼は前にも増して人間離れした輝きを放ち、革命に向けて精力的に働いていた。
 振る舞っていた、というのは正しくないかもしれない。アンジョルラスは本当に何も気にしていなかったのだから。僕やプルヴェールがどれだけ彼を想っていようと、彼にとっては意味のないことだった。僕たちの気持ちを理解しようともしなかった。そもそも、僕たちに気持ちというものがあることを彼が知っていたとも思えない。それは彼に気持ちと呼べるものが無かったからに他ならなかった。自分が感じていないことを、他の人が感じているかもしれないと想像するのは難しいことだ。たとえ美の女神が彼の足下に身を投げ出して愛を訴えたとしても、彼の心を動かすことはできなかっただろう。自ら人を愛したことがなければ、その苦悩はわからない。
 僕はアンジョルラスを無慈悲だと責めることはできない。彼はただ、誰かを愛するということの意味を知らないだけだった。
 プルヴェールの詩作のような健全なはけ口を持たない僕は、他にどうすることもできずひたすら酒を飲み続けた。僕が何も知らなかった頃と変わらず美しいアンジョルラスを目にするのが辛くて、それでもその姿を見ることができないのはもっと堪らなくて、たとえカフェを出ても結局次の日にはまたふらふらと戻ってきてしまうのだった。
 そんな僕の姿を目にしていても、アンジョルラスは何も言わなかった。元々僕が騒いだり絡みかかったりしない限り向こうから声をかけてくることは無かったが、今、彼が僕のことを本当にただ都合のいい情夫としか思っていないのだと思い知らされるのはあまりに辛すぎた。
 僕は誰にも何も言わなかったが、今になってプルヴェールの気持ちがわかるような気がしていた。おそらく彼は夢を見すぎていたのだ、天使をその腕の中に捕まえる夢を。いったんは叶ったかと思ったが、身体は手に入っても心は決して自分のものにならないことを悟ったのだろう。彼らの関係がどのようにして終わったのか、僕は最後まで知ることは無かったが、多分プルヴェールの方から離れたがったのだろうと見当をつけていた。手放したくはなかったに違いない。だが、先天的にロマンスを解さないつくりの精神を目の当たりにして、ロマンスを糧に生きる詩人がそれに我慢できるわけがない。そして快楽を、情けを知らない天使にとっては純粋に快楽でしかないものを覚えた身体は、更なるものを求めて飛び立ったのだ。
 僕は、それが僕だったのがせめてもだったという思いと、僕でさえなければ他の誰でも良かった、最後まで知りたくはなかったと呪う気持ちとを同時に身のうちに抱えて、今にも爆発しそうだった。
 そしてその、他の誰か、という言葉の意味に気がついた時、僕はぞっとして思わず酒を注いだばかりのグラスをテーブルに叩きつけていた。
 中身が辺りに飛び散り、たまたま向かいに座っていたレーグルがその大部分をかぶって何かわめいていたようだったが、僕は自分の思いつきに没頭してしまっていたので殆ど何も聞こえなかった。
 そうだ。何故僕でなければいけないことがあるだろう。僕だけじゃない、誰だってアンジョルラスが好きに決まっているのだから。僕は三人の仲間が席を占めている隣のテーブルにゆっくり目を向けた。彼が最も信頼するコンブフェールともっと絆を深めて悪いわけがあるだろうか? クールフェラックは誘われれば絶対に断るまい。バオレルならそれをタブーとも思わないだろう。
 なにもアンジョルラスは毎晩僕のところへやって来るわけではないのだ。当たり前ながら、何をしているのか知らない夜の方がずっと多い。プルヴェールも僕も、何も知らぬふりでアンジョルラスと毎日顔を突き合わせながらなんとか過ごせているのだ。他の奴らが同じことをしていない保証がどこにある?
「おい大文字のR!人の話を聞けよ!」
 大声で名前を呼ばれてはっと我に返ると、目の前に困惑と諦めの入り交じった顔のレーグルがいた。横からジョリーが彼にハンカチを差し出していた。
「あーあ、こりゃ駄目だ、一度部屋に帰らないと。君もよくまあ器用に全部引っ被ったね、ボシュエ。いや、いいからそのハンカチ使っちゃってくれよ。どうせ明日は洗濯を頼む日なんだから、不幸中の幸いだ」
「残念ながら、僕は今回は洗濯を出せるだけの持ち合わせがなくて」
「貸すよ、貸すよ」ジョリーは溜息をついた。「いつものことじゃないか。だいたいそんな酒の匂いさせながら側にいられちゃこっちがかなわないし。来週末に三人で芝居を見に行く約束、忘れちゃいないだろ? そのまま僕らの大事なお嬢さんの前に出るつもりかい? それにしても、」
 ジョリーは、彼らが会話を交わすのをぼんやりと眺めていた僕の方をくるりと向くと、僕の顔をまじまじと見つめ、もう一度更に大きな溜息をついた。
「グランテール、君ここんとこおかしいぜ。頭はちゃんと働いてるかい? いくら君でも飲みすぎだよ。医学者としての立場から言わせてもらえれば、度を過ぎた酩酊は人体に有害なんだ。何が原因だか知らないけどね、とにかく最近の君の飲みようには感心しない。飲んでばっかりで殆ど食べてないみたいじゃないか。‥‥おい、聞いてるのかい?」
「聞こえてないよ」ボシュエが苦々しげに口を挟んだ。「友人の心配も、同情も受け付けない境地に行っちまってる。どうしたもんだろうね、これ。放っといてもいいが、そのうちどこかで行き倒れられても後味悪いし」
「とりあえず、僕らいったん帰ろう」ジョリーが腕組みをして言った。「彼のことはまた明日だ」
「何か考えがあるのかい?」
「考えも何も、まず何か酒以外のものを胃に入れさせないと。ここまでひどい状態の人間にいきなり色々与えても害になるだけだから、少しずつね。ルソーの店に連れて行こう、あそこなら誰も酒を飲まないから」
「行こうとしなかったら?」
「セーヌに突き落としてやる」
 彼らが掛け合いを続けながら部屋を出ていくのを、その後ろ姿がドアの向こうに消えるまで、僕は無言で見送った。
 突然、強烈な可笑しさがこみ上げてきた。
 どうしてあんな馬鹿な事を考えついたのだろう。プルヴェールに何が起きているのかもわからないバオレルが、自分達の愛人のことを一番に気にかけているジョリーとレーグルが、僕のような歪な感情を抱えてここにいるわけがないのに。ちらりと隣のテーブルに目を遣ると、怪訝そうな顔つきのクールフェラックと目が合った。彼が僕に向かって咎めるように舌を鳴らしたので、僕はますます可笑しくなった。改めて見てみれば誰も彼もがいつもと変わらない、罪の無い気のいい仲間達だった。
 僕は額に手を当てて笑い出した。ぼんやりしていたかと思ったらいきなりグラスを叩きつけたり、ヒステリックに笑い出したりして、端から見ていたらさぞ気味が悪かっただろう。わかってはいたが、それでも抑えられなかった。あまりに自分が滑稽で、惨めで、悲しくて、笑うよりほかどうしようもなかった。
「うるさいぞ、グランテール!」
 聞き覚えのある怒声に僕はぎくりとして笑うのを止めようとした。だが一度起こった笑いの発作は自分ではコントロールできず、慌てたせいで却って激しく咳き込む羽目になった。ようやく息を整えて胸を押さえながら声のした方に顔を上げると、アンジョルラスが部屋の向こうからこちらを鋭く睨みつけていた。
「君は僕らの邪魔にしかなってない。静かにしていることもできないなら、家に帰れ」
 僕は驚いて彼をまじまじと見つめ返した。彼が僕のところへ来るようになってからまだひと月も経っていないはずなのに、彼にこんな風に怒鳴りつけられるのがたまらなく懐かしかった。厳しく、潔癖な、僕の知っていたアンジョルラス。僕の愛したアンジョルラス。
 そして、僕はやはりまだ彼を愛していた。
 僕は胸に幸せが込み上げてくるのを感じた。例えもし僕の知らないところで他にも何か起きているのだとしても、僕はもう知りたいと思わなかった。今こうして彼を見ているだけで充分だった。僕が欲しいものは全部、ここにあった。
「僕はここにいたいんだ、アンジョルラス」
 愛想笑いを浮かべながら、僕はできる限りまともな声で喋ろうと努力した。
「ここは君のような男のいるべき場所じゃない。家に帰れ。何度も言わせるな」
「僕はどこにも行かないよ」
 そう言いながら僕は、爆発的な笑いの発作の後にいつも襲って来る、お馴染みの抗い難い眠気がじわじわと全身を包み込み始めるのを感じていた。僕は机に両肘をつき、組み合わせた指の上に顎を乗せて、重たい瞼の下からアンジョルラスを見上げた。
「ここにいさせてくれよ。ここで君を見ていたいんだ。僕は君が好きなんだ、知ってるだろ‥‥」
 僕はプルヴェールの方を見なかったので、彼がアンジョルラスの表情を読み取れたかどうかはわからなかった。だがもし僕以外に、アンジョルラスの瞳をよぎった驚愕の意味を、この僕が敢えて犯した小さな裏切りを理解し得る者がこの場にいたとしたら、それはプルヴェールだけのはずだった。当のアンジョルラスにはわからない、盲目的な崇拝者であるはずの僕のささやかな不服従の意味を。
「わかってくれとは言わないよ」
 口の中で呟き、僕はそのまま机に突っ伏して気絶するように眠りに落ちた。


 



 僕はまた悪夢を見た。


 顔に吹き付けてくる熱風を手でさえぎりながら、僕は何だか前にも同じことをしていたような気がした。僕は足下の石畳の感触や、あちこちで上がる銃声のことをゆっくり考えた。前にもこんな夢を見たような気がした。同じ場所に立っていたような気がした。だがそうだと分かったところで、気分が良くなるわけでもなかった。安物のワインときつい日差しのせいで頭は煮えるようだった。
 遠くで誰かがまた銃を撃った。今度は僕の近くで悲鳴が聞こえた。声のした方を向くと、僕の知らない男が蹲ってバリケードに頭をもたせかけていた。地面についた膝のあたりに大きな血溜まりができていた。
 僕はのろのろと周りを見回した。熱気の籠ったバリケードの中は、屠殺場もかくやと思うばかりの混沌ぶりだった。違うのは、地面に倒れて血を流しているのが人間であるという点だった。巻き上がる土煙の中、動き回る影たちの中に僕はいくつか知った顔を見たような気がした。あるものは必死の形相で銃剣を振り上げており、あるものは動かなくなっていた。
 僕は無傷だった。僕を守るものなど何もないはずなのに、まるで戦闘の方から僕を避けているようだった。誰も僕の方を見なかったし、いることに気づいている様子もなかった。
 その時、ひときわ大きく銃声が弾けた。
 いやに不吉に響いたその音に思わずバリケードの天辺を振り仰いで、僕は息を呑んだ。そこには胸を押さえたアンジョルラスが、手からカービン銃を取り落としたところだった。彼の銃はバリケードの途中で跳ね返って、地面に落ちて鋭い音を立てた。
 彼は束の間、足場にしていた木材に掴まって持ちこたえかけたように見えたが、次の瞬間、体を反転させてバリケードの外側に落ちていった。
 僕は弾かれたように走り出した。頭は恐慌を来しそうになりながら、震える足でバリケードを上まで駆け上り、ついさっきまでアンジョルラスが立っていた場所に来て外に身を乗り出した。
 アンジョルラスは地面に横たわっていた。仰向けに倒れた彼の顔は紙のように真っ白で、口の端から耳まで血の筋が流れていた。彼の白いシャツが、僕の目の前でじわじわと赤く濡れていった。
 途端に、僕の周りから何もかもが消え去った。音も、光も、言葉も、時間も、全てが真っ白になって吹き飛んだ。魂を奪われた僕の存在は行き場をなくし、虚空を駆け回ってたった一つ残った思念をくり返し叫び続けた。
 アンジョルラス。アンジョルラス。アンジョルラス。アンジョルラス。
 僕は急に目眩を感じ、バリケードの上に倒れてへばりついた。真下にアンジョルラスが倒れている。僕は頭を垂れ、血まみれになった手を彼に伸ばしたが、遠すぎて届かなかった。
 ふと、アンジョルラスが死ぬのは正しいことなのだという考えが心をよぎった。彼は天使なのだ。こんな腐りきった世界にいつまでもいるべき存在ではなかったのだ。神が彼をなつかしんで、天に呼び戻した。そういうことだ。それで正しいのだ。
 彼のあとを追って空へ飛びたかった。しかし僕のような男が、どうして彼と同じ場所へ行けるだろうか。僕らはたまたまこの地上で一緒になったが、それだけのことだ。彼は空へ還る。僕は塵になって消える。彼は僕を忘れるだろう。


 アンジョルラス、僕の天使。
 それでも、僕は、君を。



End.





 note:

 ‥‥何だか色々と間違ったことになっていてごめんなさい。
 何年も前のファイルを漁っていて見つけたネタを元に話を膨らませていったら、どんどん大変なことに。当時の自分は一体何を考えてたんだ‥‥と思いつつ、ここまで捏造しないとグラ×アンは自分には無理なんだなあと再確認しました。いや、それでも書きたかったんです。
 アンジョルラスもグランテールも偽物ですが、プルヴェールだけは結構イメージ通りに作れました。彼は私の中ではどこまでも健全な男の子のイメージが真っ先にあるので、恋愛に於いては男の子の立場をとれると思ってます。
 バレてると思いますが、ジョリーとレーグルは書いてて一番幸せでした。

 2005.9.22.