是は喜びの季節





 固く閉ざされたノートル・ダム寺院の門扉の前に座り込んで、アゼルマはひたすら時間が過ぎるのを待っていた。もうそろそろミサが終わるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、彼女は土気色になった足をできるだけぴったりと体につけて、刺すように冷たい冬の風から守ろうとしていた。
 外は雪が降っている。階段を上がりきった、壁のくぼんだところを運良く陣取ることができた彼女は、そこから辺りを見回して集まった物乞いの多さに不安を感じた。彼女の普段の仕事は街頭での物乞いではなく、金のありそうな人の家を一軒一軒訪ねて回ることだ。職業的に物乞いをしている連中に交じって自分がどれだけ稼げるものか、彼女には全く見当がつかなかった。しかも今日は、エポニーヌが一緒ではない。クリスマスだからと父親が二人を引き離して、それぞれあがりの良さそうな場所に行かせたのだ。
 アゼルマは一人きりで慣れない場所にいることに心細さを感じはしたが、父親に対して怒りを覚えたりはしなかった。彼女はずいぶん前から、喜びや悲しみや怒りといったものを強く感じることがなくなっていた。嬉しいことなど何一つなかったし、泣いたり口を尖らせたりすればきまって父親にぶたれた。そのせいで彼女は次第に何事にも無関心になっていった。時たま何かを感じることがあったとすれば、不安と恐怖、それだけだった。
 不意に鐘の音を耳にして、アゼルマははっと顔を上げた。ミサが終わったのだ。
 彼女がかじかむ足でふらつきながら立ち上がったのとほぼ同時に寺院の中央扉が開かれ、晴れがましい顔の礼拝客たちが次々にあふれ出てきた。
 人混みの中でよろけながら、アゼルマは懸命に声をあげた。
「お恵みを‥‥!奥様‥‥お恵みを‥‥!クリスマスです‥‥!どうぞお恵みを‥‥!」
 だが、彼女のか細い声は群衆のざわめきと鳴り響く鐘の音にかき消されていった。人々は彼女の方を見向きもしないで、それでいてぶつかることもなく、雪に覆われて輝く広場の光景に歓声をあげ、また他人同士にこやかに握手とメリークリスマスの挨拶を交わしながら、次々と側を通り過ぎていった。
 それでも礼拝客が大方出払った頃には、アゼルマはいくらかの小銭を手にしていることができた。ぼんやりしたまま完全に機械的に動いていたので、一体いつ、どういう人にもらったのか彼女にはわからなかった。お礼を言ったかどうかも、情けないことに思い出せない。
 アゼルマは、開きっぱなしの入り口から礼拝堂の中を覗き見た。もう帰る者は皆帰ってしまったようだ。集まっていた他の物乞い達も、気がついてみるとアゼルマを一人残していつの間にかどこかへ消えていた。
 彼女は得た金をポケットから全部出して、しばし眺めた。悪くない。悪くない‥‥そう思いたい。何もないよりはましだろう。だが、これで父親が満足してくれるかどうかで彼女は心配になった。多分しないだろう。どうやったって満足というものを知らない人間だ。ただあんまりひどく機嫌を悪くしないでくれれば、とアゼルマは願った。
 アゼルマは金をポケットに戻し、人通りもまばらになった広場をもう一度見回した。もうここにいても意味はないだろう。他の教会か何かをあたってみるか、それともエポニーヌと合流した方がいいだろうか。
 エポニーヌのところへ行こう。アゼルマは即座に決めた。もしかしたら、エポニーヌが沢山稼いだかもしれない。二人分の稼ぎをあわせてみよう。
 そうと決めると、アゼルマは無性に姉に会いたくて仕方が無くなった。また雪の中を跣足で歩くことを思うとそれだけで背筋が寒くなったが、嫌だからといってどうなるわけでもない。彼女は肩掛けの端をしっかり握りしめて、階段の上まで進み出た。
 その時、何かが広場の向こうからやってくるのに気がついて、彼女は思わず壁際に身を寄せた。
 だが隠れる必要はなかった。笑ったり調子よく罵り合ったりしながらこっちへ向かって来た四人の男達は、警官の制服を着てはいなかった。
 彼らはどうやら広場に積もった雪に惹かれてやってきたようだった。四人はしばらく何事もなく歩いていたが、一番後ろを歩いていた青年がやにわにその場にしゃがみこんだと思うと、先を歩いていた仲間の背中めがけて大きな雪玉を投げつけた。
 不意打ちをくらった青年は小さく毒づいて振り返り、笑いながら反撃を開始した。アゼルマが眺めているうちに残りの二人も雪合戦に巻き込まれ、歓声をあげながら誰彼の見境なしに雪をぶつけ合い始めた。
 ようやく興奮状態が収まった時、一人が帽子のつばを指先でちょいと上に上げ、夜空にそびえるノートル・ダム寺院を見上げて楽しそうに叫んだ。
「今日はカジモドがやけにはりきってるね!」
 他の男が叫び返した。
「クリスマスは奴の独壇場だな!我らに主の降誕を告げるカジモド万歳だ!」
「カジモド万歳!」
 そしてまた大声で笑った。
 明らかに四人とも酔っている。
 そのうちの一人、一番最初に声をあげた男になんとなく違和感を感じて、アゼルマはその男を目で追った。
 違和感の正体は、彼が雪を払おうと帽子を取った時にはっきりした。まだ若そうに見えるのに、頭がすっかり禿げ上がっているのだ。それとも剃っているのだろうか。いずれにせよ滑稽だった。
 その滑稽さにアゼルマはふと冒険心をかきたてられた。彼女は雪を踏んでまだ笑い続けている男達の後ろにそっと近づいて行き、声をかけた。
「あの、旦那様方」
 しかし、彼らは自分たちの冗談に夢中になっていて、彼女に気づく様子もなかった。
 アゼルマは声をはりあげた。
「あの!」
 四人の男はぎょっとしたように一斉に振り向いた。
 あまりに唐突に彼らが態度を変えたので、その勢いに反対に呑まれそうになりながら、アゼルマはなんとか声を出した。
「あの、お恵みを」
 青年達は、無言で目線を交わし合った。
「雪が降ってます、旦那様方」
 まずい奴らに声をかけてしまったかもしれない、と少し及び腰になりながら、それでもアゼルマは彼らに向かって両手を組み合わせてみせた。
「どうかお恵みを‥‥クリスマスです、旦那様方‥‥どうか‥‥」
 その時、なお食い下がろうとした彼女のその手を、禿頭の青年ががばっと掴んだ。
「そうだ!」
 いきなりのことに、アゼルマは狼狽した。
「そうとも、雪が降ってる!」
 青年は恐怖に身をすくめているアゼルマの様子を全く気に留めず、掴んだ彼女の手を高く掲げ、残りの三人に向かって、まるで演説するような調子でしゃべり出した。
「どうしてこう雪が降らなきゃならないんだろうな? クリスマスくらい休んだって構わないだろうに。町に真っ白に覆いをかけて、それでどうしようっていうんだ。パリの町を白くしたところで何にもならない。烏に白絵の具を塗りたくったところで烏は烏だ。あの手すりから身を乗り出してる怪物たちが口をきけたら、この雪景色に抗議するに違いないよ。人々の目をくらませる白を取り払え、とね。雪はただ覆い隠すだけで、何も清めたりはしないんだ」
 この男が自分を肴にして冗談を言っているだけなのだとわかって、アゼルマは怖がるのをやめた。だが彼女の手は男の大きい手にがっちり掴まれたままで、逃げようにも逃げられない。他の三人の男達も面白がって手を叩いたり、言葉の合間に野次を飛ばしたりしている。厄介な奴らに係わってしまった。
 困り切っているアゼルマをよそに、男は言葉を続けていた。
「物事を改めずに見た目だけを取り繕うのはいけない。それは欺瞞だ。真実を隠してはいけない。その冷たいめっきの下で凍え苦しんでいる者たちの姿をよく見なければ。上辺の美しさにごまかされてはならない。それはやがて春が来れば溶けて消える、まがいものの美しさだ。諸君、事実から目をそらしてはならない。雪の下の現実をよく見ようではないか!」
 男はそこで言葉を切ると彼女の方を向き、急に穏やかな口調になって言った。
「でも残念ながら、僕には雪を溶かす力はないんだ」
 そう言って、彼は上着のポケットに手を突っ込んだかと思うと、アゼルマの手に数枚の硬貨を押しつけた。
「まず靴を買いなさい。それに上着も。その格好じゃ冬を乗り切れないよ」
 男の手がどけられた時、アゼルマは手の中にあるものを見て我が目を疑った。そこには五フラン金貨が六枚、きらきらと輝いていた。
 逃げなければ。咄嗟にアゼルマは考えた。何が起きたのかはわからないがとにかくこの男が気を変える前に、金が自分の手の中にあるうちに。だが彼女の足は言うことをきかなかった。驚きのあまり、足が気絶してしまったようだった。
 驚いていたのはアゼルマだけではなかった。他の三人が、すっかり酔いが醒めた顔で、戸惑いと疑いをあらわにしながら彼女の手の中の六枚の五フラン硬貨に釘付けになっていた。
 グループの中で一番年嵩に見える男が最初に我に返り、怒ったように禿頭の青年の肩を小突いた。
「おい、おい、おい‥‥まさか本気じゃないだろうな」
「いけないかい」
 青年は肩をすくめた。
「この子の足を見ろよ。手を見ろよ。奇跡御殿で簡単に治るような代物じゃないことぐらい、僕にもわかる」
「おまえ、今年は旅費がないから帰省しないんだって言ってたじゃないか!」
 女に好かれそうな顔の、趣味のいい服を着た男が高い声で叫んだ。
「それはもう一週間も前の話だよ。昨日の勝ち分をあの時手にしていさえすれば、馬車を一台借り切って懐かしの我が家に全速力で走らせたさ。でももう遅すぎるから、代わりに君たちをクリスマスの晩餐に招待したんじゃないか」
「そしてそいつが」嗄れた声の男が、アゼルマの手を指さして言った。「君の最後の手持ちだ」
「だった、だよ、グランテール。君もフランス人なら文法には気をつけたまえ」
「三十フラン!」嗄れ声の男が口笛を吹いた。
「後悔するぞ、ボシュエ!」年嵩の男が注意した。
「冬中俺の部屋に居座る気か?」洒落男が悲鳴をあげた。
 三方からほぼ同時に違うことを言われた禿頭の男は一瞬迷う素振りをみせたが、結局洒落男の方を向いて肩をすくめた。
「ジョリーが帰ってくるまで頼むよ、クールフェラック。最初からそう言ってたじゃないか」
 洒落男はにやにや笑いながら首を振った。
「冗談だよ。夏までだっていろよ。しかし、三十フランとはね!正気を疑うぜ!」
「こんなガキ、そこら中にいるってのに」
 年嵩の男が苦々しく言った。
「いちいち構ってたんじゃきりがないぜ、ええ? この金だってどうせ親かヒモかに巻き上げられて終わり ー」
 嗄れ声の男が、彼の口に手の甲をぶつけてその言葉を止めた。
「クリスマスだぜ、バオレル」彼は静かに言った。「言いっこなしだ」
 禿頭の男はアゼルマの目の前に指を一本立てた。
「自分のために使いなさい、いいね?」
 にっこり笑ってそう念を押すと、彼はきびすを返して歩き出した。洒落男と嗄れ声の男がそれに従った。
 年嵩の男は腕を組んで呆れきった表情でアゼルマを見下ろしていたが、やがて「どうにでもしろ!」という顔をして大仰に天を仰ぐと、おとなしく仲間達の後に続いた。
 去り際、洒落男が踵でくるりと振り返り、彼女に向かって軽いウインクを投げて寄越した。
「メリー・クリスマス、マドモワゼル!」
 アゼルマは、彼らの後ろ姿が角の向こうに消えるまで、口をぽかんと開けたまま見送っていた。
 四人の姿が見えなくなった途端、彼女はまた不安に襲われて手の中の五フラン硬貨を何度も何度も数え直した。一、二、三、四、五、六。六枚のルイ金貨。三十フラン。男達が消えてしまっても、それは確かにそこにあった。幻ではない。からかわれたのでもない。間違いなくアゼルマのものだった。
 頭や肩に雪が降り積もるのにも気づかず、アゼルマはしばらくそこに立ちつくしていた。
 出し抜けにノートル・ダムの鐘がひときわ高く鳴り響き、彼女ははっと我に返った。
 エポニーヌ、エポニーヌに知らせてやらなきゃ。
 肩掛けの中に六枚のルイ金貨をしっかりくるみ、興奮に顔を火照らせて、アゼルマは全力で駆けだした。



End.





 note:

 そして次の日の朝、クールフェラックの部屋で二日酔いで痛む頭を抱えながら、ボシュエは自分の行動を思い返し、また一文無しになってしまったことに気がついて苦笑するのでした。
 ていうか、自分で書いておきながら考えなしにもほどがあります、ボシュエ。
 クリスマスなので、フィイとマリユスはそれぞれどこか近所の礼拝堂に行っていて、アンジョルラス、プルヴェール、コンブフェール、ジョリーは実家で過ごしているつもりでいます。果たしてこの時代、クリスマスに帰省というのが一般的だったかどうかは知りませんが。

 ゴルボー屋敷の部屋で、無気力な目でぼんやり座っていたアゼルマが印象深くて、こんな話になりました。

 2004.12.23.