再度警告:オリキャラ×バーティ。男同士の性描写を含みますので、苦手な方は読まれないようお願いします。































Replacement





「お許しください、ご主人様」男の声は震えていた。「お許しください、どうか.... 」
 唇の上に彼の吐息を感じながら、僕は呆然としていた。僕はいつもこうなのだ。何か思いがけないことが起きると、ただでさえ動きの鈍い脳細胞が完全に麻痺してしまい、顎は落ちるわ、目は飛び出すわ、端から見たらそれはもう間抜けなご面相だろうと自分でも想像がつくほど呆然としてしまう。今この瞬間、僕は正にそんな顔をしているはずだった。
 だが、今回ばかりは僕の鈍さをあまり責めないでいただきたい。つまり、今僕が置かれているような状況に置かれた場合、いったいどれだけの男が冷静な思考を保てるだろうか。勿論、ジーヴズのような男は別だ。奴なら、たとえ天使が喇叭を吹き鳴らしたとしてもせいぜいが眉をぴくりと上げるだけで顔色一つ変えはしないだろう。しかし普通の神経の男ならば、一日の終わりにシャフツベリ大通り沿いの劇場でコメディを鑑賞した後、夜の空気を楽しみながらピカデリーサーカスを回り、常に安全な場所と見なしていた自分のフラットにいい気分で帰り着いた途端、突然上背のある男に、それも自分が信頼を寄せていた男に襲いかかられ唇を奪われたとしたら、大抵度を失うのではないだろうか。
 そしてそれこそ正に、今僕が置かれている状況という奴なのだ。
 僕は少し落ち着きを取り戻して、目の前にある男の顔を眺めた。そもそも彼が誰であるかというと、僕が説明できることはあまり多くはない。彼は、休暇でロンドンを離れたジーヴズと入れ違いに二週間前にこのフラットにやって来た、奴の代理の従僕なのだ。ジーヴズのいないこの十四日間というもの、彼はとてもよく務めを果たしてくれた。仕事熱心で、僕のだらしない生活習慣に文句ひとつ言わずに従い、更にありがたいことには僕の服装の趣味に難癖をつけることも全くなかった。彼の「かしこまりました」と言う言い方には、自分が正しい指示を出しているのだと人に思わせる響きがあった。彼はそして、よく笑った。ジーヴズとはまた別種の、得難い従僕だった。
 僕はそれを彼の生来の性質だと受け取って高く評価し、彼がここを出る時、必要とあらば良い紹介状の一つでも喜んで書いてやるつもりでいたのだが、もしかしてあの熱心さは僕個人に対する特別な好意から発露したものだったのだろうか(発露という言葉が正しいとすればだ)。いや、それならそれで構わない。心の中で血みどろの社会革命を思い描きながらいやいや従僕をやるよりも、好感の持てる人物の下で充実感を持って働き、親密な関係を築ける方が本人にとっても、また主人にとってもよっぽどいいに決まっている。たとえば僕とジーヴズのように。ただ、彼が今こうして僕の両肩を壁に押しつけ、驚きで口もきけないでいる哀れな主人に必要ならざる人工呼吸を施しているところをみるとどうやら、彼の求めていた親密な関係というのは僕の想像していたものとは少しばかり方向性が違っていたらしい。
 彼はようやく顔を離し、少しだけ身を引くと、熱でうるんだ目で正面から僕を見据えた。
「ご主人様、」彼は高まる鼓動がそのまま伝わってくるような声で言った。「お慕いしております。初めてお目にかかった時から、ずっと」
 僕は狼狽した。こんな目つきの彼を見たのは初めてだった。あの屈託のない、あどけないとも言えるような笑顔の裏に彼がこんな激しい一面を隠していたとは。彼の隠すのが巧かったせいか、それともたんに僕が鈍すぎたせいなのか、もしかその両方なのか。
 彼の目には、そして恐れが宿っていた。恐怖だ。おわかりいただけるだろうか。僕はその気持ちが痛いほどよくわかった。男が男を好きだなんて、洒落や冗談で言えるものではない。ましてや僕は彼の雇い主なのだ。もしジーヴズが後輩のこんな越権行為を耳にしたらなんと言うだろうか。目眩でも起こして倒れるか。それはそれで見物かもしれない。だが話を元に戻せば、僕はこれでこの男を男色家として告発し、彼の社会的地位も将来も完全に打ち砕いてやることだってできるのだ。勿論、念のため言っておくならば、僕はそんなことをするつもりはからきしない。ウースター家の男が、どんな形であれ自分に向けられた純粋な愛情を冷たくあしらうようなことはできるはずがない。尻尾を巻いて逃げることはあるかもしれないが、人の必死の思いを一蹴するような冷血漢には僕はなれないのだ。彼がその気持ちを打ち明けるには、例えば、ビンゴが今週の愛しの女神に愛を告白するのとは比べ物にならない苦悩があったはずなのだから。
 僕はふと、この青年は一体何歳なのだろうと考えた。今までいちいちそんなことを考えたことはなかったが、こうして見ると彼はとても若く見えた。もしかしたら僕よりも年下なのではないかと思うほど。手を伸ばして彼の滑らかな頬に触れると、指の下で彼が緊張に身を固くするのがわかったので、僕は安心させるように彼の頭を撫でてやった。短く刈り込んだ、柔らかい金髪が手に心地よかった。
 僕のこの行動は彼を勇気づけたようだった。彼はおそるおそるといったように僕の背中に腕を回し、僕の腕ごとぎゅっと抱きしめた。
 どちらかというと自分よりも小さい人間を抱きしめることに慣れている僕は、自分より背の高い男の腕の中にとらえられながら、これから先背の低い女性を自分の肩で窒息させるようなことがないよう留意することを心に誓った。だが彼がその手で僕の頬を包み込み、ためらいがちな舌が僕の半開きになったままの唇の間に滑り込んだ途端、いったん目を覚ましたかと思った僕のなけなしの分別は、状況が手に負えないと知ってまたもや引き蘢りを決め込んでしまった。恐慌状態が去り、判断力を手放し、感覚だけになった僕の体は、男のキスに勝手に反応し始めた。
 彼は深くは口づけてこなかった。滑らかな舌が愛おしむように僕の唇の内側をなぞった後、歯列の上でまた怖じ気づいたように動きを止めたのに気づき、僕は焦れったくなって彼の頭を引き寄せ自分からその舌に吸いついた。僕は残念ながら音に聞こえたテクニシャンというわけではないが、かといって、寮のルームメイトにキスの練習台になってくれと頼む愚かな十四の子供でもない。ゆっくり舌を絡めると、ん、と鼻にかかった声が返ってきた。寄せ合っていた顔を離した時には、二人とも呼吸が荒くなっていた。
 彼は僕の上襟を外すと、剥き出しになった首筋に唇を落とした。僕は少し顔を反らせ、目をゆったり閉じて喉からため息が出るに任せた。人から求められるなんてどのくらいぶりだろうか。いや、そもそもこんな風に求められたことが過去にあったかどうか。
 僕の日常は基本的には単調なもので、そしてそんな生活に僕は満足していた。ドローンズでまったりと暇を潰し、劇場に出かけ、たまには旅行をし、そんなのんびりした暮らしの傍らにジーヴズさえいれば。たとえ独身で一生を終える事になろうが(どうもその可能性が高いような気がするが)、何もなくとも、あいつが僕の側にい続けるならそれで充分だと思っていた。いや、白状するなら奴が僕のタイを結ぶ時やカフスを留める時に、その繊細な指がもっと他の、つまり、医療的な緊急事態でもない限りあまり口に出して言うべきではないようなところに触れていたらと想像したことも一度や二度ではなかったが ー だからといってどうしようもないじゃないか、男同士なのだ。いくら僕が物事を隠し立てしない人間だといっても、これはまた別の話だろう。かくして僕は何も表に出す事なく、時おり思い出したように心の中で騒ぎ出すサテュロスをその都度いなしながら、肩をすくめてやり過ごしてきたのだ。
 男の手が僕の肩から胸、胸から腰へと滑り降りるのを感じながら、僕は、自分がこんなにも誰かを必要としていたことに、これまで気がつかなかったことに自分でびっくりしていた。人と触れ合うのがこんなに気持ちいいなんて。
 壁に背を預けてうっとり別世界に行っていると、彼が僕の喉元で、何か僕の外見について意見を述べたような気がした。もし聞き間違いでなければ、彼は僕を「美しい」と形容したらしかった。
 僕の夢見心地はその言葉で中断された。いったいこれまでに、僕のことを美しいなんて言った者が他にいただろうか。まあ母なら、僕が小さかった頃に言ったことがあるかもしれない。だが、そんな親の欲目をもってでもしない限り、僕をきれいだとか美しいとか言うのにはかなり無理がある。僕は自分が毎朝鏡を見るたびに自殺を考えずにはいられないような醜男だとは勿論思わないが、道行く女性が悉く振り返ってため息をつくようなハンサムでもないのだ。ご婦人が通りすがりに僕の事を振り返って見たとしたら、それは僕のネクタイがあまりにけばけばしかったからだと思った方が賢明だ。ジーヴズに聞いてみるといい。奴は僕の容貌について失礼なことを言いはしないだろうが、それでも美しいなんて形容詞は使わないだろう。この男が本気で僕を美しいと思っているのだとしたら ー おそらく本気なのだろうが ー 彼は目が悪いか、頭がおかしいか、でなければ徹底的に恋に落ちているかだ。
 僕は自分の飲み込みの遅さにほとほとうんざりした。勿論彼は恋しているのだ。この僕に。徹底的に。絶望的に。なんてこった。
 僕は突然、罪悪感が鋭く胸を刺すのを感じた。こんな、どっちつかずどころか他人任せな気持ちで状況に流されるのなんて最低じゃないか。今も、ここにはいない男のことを考えているくせに。僕にはこの青年の純粋な思いを受ける資格なんて無い。きっぱり断るべきなのだ。
 だがその一方で囁く声があった。何故だめなんだ? このまま成り行きに任せたからって、悪いことなんか何もあるもんか。彼だって、お前に思い返してもらえるなんてはなから期待してない。情けをかけてやれば自分も楽しめるんだし。お前にはどうせ、本当に欲しい相手に気持ちを打ち明ける勇気もないんだから。
 さて、どちらの意見を聞き入れるべきなのだろう。僕にはどちらも筋が通っていないように思えた。僕は二つの意見の間に立って調停を試みたが、デビットとクレジットはお互いに耳を貸さず言いたい事を言い合うばかりで、混乱はどんどん深まっていくばかりだった。
 ジレンマのうちにふと目を開けると、いつのまにか男の顔が目の前にあった。僕の態度が変わったのを見て取ったのか、彼は切羽詰まった、だが問いかけるような眼差しになって、僕の右手を握りしめた。
「ご主人様....?」
 僕は唾をごくりと飲み込んだ。いや、これだけ体をくっつけ合っていれば、彼が切羽詰まっているのは目を見るまでもなくわかってしまっている。彼が何を言いたいのかは明白だった。彼の務めは今夜までなのだ。明日の昼にはジーヴズが帰ってくる。それまでの約十二時間の間に、まあなんやかやと、やれることをやっておきたいというのが彼の正直な望みなのだろう。まあ、そう言っている僕もあまりその方面に明るいわけではないので、具体的にどういうことをどこまで求められているのかは少しあやふやなのだが、そのプランを実行に移す際には僕の寝室とベッドが大きな役割を果たすであろうことだけは自信を持って言える。
 僕は答えようと口を開きかけたが、言うべき言葉が見つからず、そのままの表情で凍りついてしまった。問題は大きく分けて二つあった。一つは、不本意ながら僕が彼と同じくらい切羽詰まっているのも当然彼に伝わっているだろうということ。僕は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。男はごまかしようがないから全くもって厄介だ。
 もう一つは、もし僕がこの魅力的な誘惑にめげず常識と法を言い訳に本気で抵抗したならば、彼及び僕がどれだけ肉体的に差し迫った状況にあろうとも、彼は僕の言葉に従うだろうとわかっていることだった。言い換えるなら、今ならまだ逃げようと思えば逃げられるのだ。最後の決断は僕に委ねられているのだ。
 僕のパニックは最高潮に達した。彼のまっすぐな愛情を訴えかける目。僕の右手を包む熱い手のひらと指の感触。押しつけられた胸からシャツ越しに伝わってくる鼓動。彼は僕の望む相手じゃない、だが彼は僕を求めているのだ。他の誰でもない、この僕を。そしてこの慈しむようなキス。柔らかい唇と舌。甘い唾液の味が、僕の理性ある神の創造物としての自覚をじわじわ錆び付かせていくのがわかる。
 どうしたらいい。何を言えばいいんだ。
 助けてくれ、ジーヴズ。



End.





note:

 何故素直にジーヴズ×バーティが書けない、私。
 どれだけ考えても思いつくのは他の男×バーティのシチュばかり(そしてバーティが押し切られて流される話ばかり)。この話はコール・ポーターの "It's Alright With Me" を聴いていて思いついたプロット。この歌色っぽくて好きなんです。
 考えてみたら主従もの書いたの生まれて初めて。わーい。

 2006.2.15.