柵の向こう側の少女

The Girl Beyond The Fence

Written by Elenlaurelin
Translated by Chicory






 全ては、パパがまたどこかへ旅行に出かけていた時に始まった。
 私たちのプリュメ街の美しい庭に花がひらき始めた、三月も終わりに近づいた頃のある週のことだった。パリ中が春を感じ始めていた。冬の間中、気分が沈んでふさぎこみがちになっていた私には、それは人生で最も長い冬のように思えた。リュクサンブール公園で出逢った青年のことが相変わらず頭から離れず、二月の半ば頃になって、私は春の訪れにようやく気が紛れ始めていたところだった。
 そう、その夜私は春の気配に誘われて、門のところへ出て行ったのだった。運命に誘われて、と言いたい誘惑にかられるのだけれど。あたたかくて、時々肌をちくりと刺すような冷たい風の吹く気持ちのいい夜だった。実を言うと私はその日、目が覚めた時にふと気がついたのだ。ー 今私は自由なんだ、と。そしてずっとその気持ちを抑えきれなくてうずうずしていたのだ。
 勿論ながら私はトゥーサンに対していつもどおりに振る舞い、そして勿論、彼女は何にも気がつかなかった。彼女はいつものように早くに寝てしまったので、私は一人で取り残された。おかげで私は門のところへ行って、着飾った貴族を乗せた四輪馬車か辻馬車でも通って目を楽しませてはくれないかと待ってみることができた。
 でも、現れたのは私が期待していたのとは違うものだった。
 彼女は忍び足で通りをやって来た。ネズミのような仕草で辺りをきょろきょろ見回し、物陰の中を伝い、次の小さな影へと走る前に周りをひどく警戒しながら。彼女がほとんどまっすぐに通りを横切った時まで、私は彼女に気がつかなかった。そして次の瞬間、彼女は私の方に向かってものすごい勢いで突進してきた。私は叫ぼうと口を開きかけたが、その前に彼女は私のドレスを鷲づかみにし、門の柵越しに私の顔を引き寄せ、私の口をその薄汚れた手のひらでふさいでしまった。
 何度もうなずいたり、私にはよくわからない隠語混じりの言葉で囁いたりして私がもう叫ぶつもりがないことを確かめた後で、彼女は私を自由にして後ろに下がった。私はこの、半分は少女で半分は悪夢のような生き物に興味を惹かれ、門の横の柵のところへ行って彼女の方へ身を乗り出した。と、その時いきなりそれが外れたので、私はびっくりしてバランスを崩してそのまま外に倒れかかった。だが私が街路に顔をぶつける前に、その少女が私を受け止めた。
 彼女はその粗野な見かけとは裏腹な優しい手で私を支え、気の強そうな、世間擦れした様子をしているにも関わらず、まるで生まれたばかりの仔猫のようにか弱そうに見えた。私の倒れかかった勢いで私たちは街灯の光の下へと転がり出て、はじめてお互いの顔をまともに見た。
 私たちは二人ともはっと息を呑んだ。
「まあ、あなたは何か月か前にパパと一緒に訪ねて行ったところのひとだわ!ジョンドレットさんの娘さんね、そうでしょう?」
「ひばり?」
 その呼び名に、私の全身はすっと堅くなった。それは私が修道院に入る前の呼び名、他でもない、忘れ捨ててしまいたいと思っていた時期の呼び名だった。私があまりにみすぼらしいからといって近所の人たちがつけた厭なあだ名。それをどうしてこの子が知っているのだろう? いったいなぜこの子が私を知っているのだ?
 その疑問に応えるように、彼女は闇の中で私の顔を目の前に引き寄せ、私の鼻先で静かに囁いた。
「ゼルマを覚えてる? あたしたちがどんな風にして一緒に遊んだか? ねえ、あの子今缶の中にいるのよ、手には大っきな切り傷をこさえてね‥‥」
 私にはわかった。あの部屋にいたのはアゼルマ、私に物乞いをしたのはテナルディエのお上さんだったのだ。そして‥‥この子はエポニーヌ。
「ポニーヌ?」
 私の囁く声は、その名前の響きに震えを帯びた。今の私には守ってくれるパパがいるにも関わらず、ばかげたことに私はその名前にまだかすかに恐怖を感じた。エポニーヌ自身が私を本当に傷つけたことは一度もなかったにせよ、私の覚えている限り、彼女はいつも痛みと関係していたからだ。エポニーヌが泣けば、お上さんは私を殴った。私が彼女と遊ぼうとしてもやはり殴られた。私はかすかに身震いをした。「あなた、とても‥‥変わったわ」
「あんたを連れてったあの男のひと‥‥あたし、あんたにいつも優しかったわけじゃないわ、わかってるけど、それでもあんたがいなくなって淋しかったのよ」
 私は笑った。「私はあなたが怖かったから、淋しがるどころじゃなかったわ」
 それで私たちは二人とも笑い、彼女の鼻先が私の額に触れそうなくらい顔が近づき合った。私の唇はこれまでにないほど彼女の口元に近づいていった。それが互いを見つけて触れ合ったのは自然なことだった。その後で少し、気まずい雰囲気になったけれど。
 エポニーヌは後ろに歩を引いた。彼女の顔から微笑みが次第に消えてゆき、私が最初に見た怯えたような表情に戻ってしまった。彼女はまるで、あまりに打たれすぎたせいで愛撫さえも恐れるようになってしまった、無力で小さな仔犬のようだった。私は注意しながら手を伸ばして彼女の頬を撫でた。彼女は怖々と微笑んだが、さっきまでのような奔放な笑顔ではなくなっていた。
「今もテナルディエのお上さんと住んでるの?」
 その名前を言う時、私の声は少し低くなった。私はまだ彼女を恐れていたのだ。私は今でも彼女の夢を見てうなされることがあった。
「ああ、あたし缶の中にいたんだけど‥‥」と言いかけて、彼女は私が隠語に困惑しているのを見てとった。 「えっと、牢屋にね。少しのあいだ。でも出してもらえたから、今は住めるとこならどこにでも住んでるわ」
「遊びに行ってもいいかしら?」私の声は少しうわずった。
 彼女は私の手を取って影の中へ引き入れた。汚れた、だがとてもやわらかい手で私の顔をやさしく持ち上げながら、彼女は小声で囁いた。
「いいえ‥‥いいえ、それは‥‥父さんがいつ出てくるかわからないし、それにゼルマや、もしかしたらヴローシュの奴も‥‥ううん、だめ。でもあたしが戻ってくるわ。会わせたい人がいるの‥‥連れてくるわ、見つけたらね。そのためにあたしここに来たのよ。だからその人が来ても驚かないでね。でもあたし、あんたのこと忘れないわ」
 そう言いながら、彼女は手を伸ばして私の念入りに巻かれた髪に触った。これがもし他の人だったら、私は触れられるのを拒んだだろう。でも、その憧れの滲む眼差しに私は胸がつぶれそうになった。彼女は醜いわけではなかった。ただ貧しかっただけなのだ。もしも物事が違ったふうに運んでいたら、ぼろを着ていたのは、骨の浮き出た肩にぺたりと髪を垂れかからせていたのは、歯が抜け落ちかかっていたのは私だったかもしれない。もしも事情が違っていれば、彼女は美しくなれたかもしれないのだ。彼女の瞳の中に嫉妬の色がぎらついたのを見て、私は自分の髪から真珠の櫛を引き抜いた。私はそれで彼女の髪をまとめてやり、反応を待った。
 彼女の汚れきった外見が、それでましになったとは言い難い。でも確かに役に立った。彼女は私を称賛するような目でまじまじと見つめると、私の顔を自分の顔の方へゆっくり引き寄せた。そして彼女は、嬉しそうな足取りで通りを走り去って行った。微笑みを浮かべたままの私を影の中に残して。



End.





 訳者あとがき:

 初めて女の子同士のスラッシュを読みました。読んだことないし‥‥と好奇心で読み始めたんですが、穏やかで静かな雰囲気がとってもきれいで、読みながら何だかきらきらときめいてしまいました(笑)。
 読んでいる時はただ可愛いなあとだけ思っていたんですが、いざ訳し始めてみると、なかなか日本語として意味が通じる文章になってくれなくて難しかったです。

 Thank you so much to Elenlaurelin for permitting me to translate this fic and use it on my site!
 Updated 20 September 04