その言葉を聞かせて





 雪。一面真っ白の雪景色。頭上にはこれも真っ白な空が広がり、地平線のところで大地と交わって、一点の曇りもない真っ白な三次元世界を作り上げている。自分が果てしない雪原に一人立っているのだということにアーサーが気づくまで、そう長い時間はかからなかった。
 彼は染み入るような寒さに身震いして、ガウンの前をぎゅっと引き合わせ、その場で足踏みを始めた。
「フォード!」彼は叫んだ。「トリリアン!ゼイフォード!どこにいるんだ!」どこからも返事はなかった。歯がかたかた鳴り始める。今、熱いお茶が一杯あったらどんなにか救われるのに。
 どうすることもできず足踏みを続けていた時、アーサーはふと何か物音を聞いたような気がしてはっと顔を上げた。雷のゴロゴロ鳴る音に似ていたが、よく耳を澄ますとそれは空ではなく大地の方から聞こえてくるようだった。アーサーは地震とそれに続く雪崩のことを考えて青ざめたが、周りを見回し、地平線の向こうから近づいてくる怪しげな影に気がつき、その正体を見極めた時、前述の自然災害たちはそう悪い奴ではなかったかもしれないと考えを改めた。
 それは、雪を蹴立てて豪速で進み来るブルドーザーの大群だった。
 アーサーは顔面蒼白になった。まるで台所でゴキブリに壁際まで追いつめられた女の子のように、動くことも、その恐ろしい光景から目をそらすこともできなかった。逃げなければ、という発想にようやく至った時には、ブルドーザーの大群は既に彼の目の前に迫っていた。
 アーサーは雪に足を取られながら走り、つまづき、顔から雪に突っ込んだ。身の毛のよだつようなキャタピラの轟音をすぐ後ろに聞きながら、彼は絶望して目をぎゅっと閉じた。
 しかしながら、彼が残酷なスプラッタシーンを思い描いた次の瞬間、ブルドーザーの大群は華麗にバベル魚の群れに姿を変え、彼の側をそのままのスピードで勢いよく泳ぎぬけていった。
 数秒後、アーサーがそろそろと目を開けると、一面に積もっていた雪はすっかり洗い流されて、代わりにからからに乾いた砂地があった。はっとして身を起こした彼の目に映ったのは、どこまでも延々と広がるオレンジ色の砂漠だった。またしても、一人きりで。
 アーサーは立ち上がり、状況を把握しようと無駄な努力をした。砂漠はなだらかな丘陵をかたち作りながら、大海原のように広く広く広がっていた。彼の見た限り、話の通じる生命体が存在する様子はなかった。
 強い日差しがアーサーの皮膚をじりじりと灼いた。彼はガウンを脱いで頭からひっかぶり、直射日光を避けた。どこかにオアシスがあるはずだ、と、煮えたぎる頭で考えた。砂漠なんだから。砂漠には椰子の木の生えたオアシスがあるもんだ。
 しかし、たとえこの砂漠のどこかにオアシスがあったとしても、彼の視界には入ってこなかった。アーサーは絶望してその場にへたりこんだ。額から汗がだらだら流れて、目や口に入った。照りつける黄色い太陽が高い空から彼を見下ろし、優しい声で、「アーサー」と囁いた。



「アーサー」
 アーサーはまた同じ声が自分の名前を呼ぶのを聞いた。頬を軽くたたかれたような気がしたと思ったら、今度はもっと強くはたかれた。「アーサー、起きろよ」
「ああう?」頬に降ってくる平手を無意識に避けようとしながら、アーサーは寝ぼけた声で答えた。
「起きろってば」
 アーサーは目を開けた。
 目に映ったものを脳が認識するまで、数秒の時間を要した。一対の目。顔。その顔を縁取る赤みがかった髪。襟。肩。肩から下に続く身体。人間。いや、思い出した。人間じゃないんだ。
「フォ‥‥?」
 起き抜けの呂律の回らない舌で友人の名を呼ぼうとして失敗しながら、彼は言いしれぬ安堵を感じ、すぐにどうしてこんなにほっとしたのか自分でわからなくなった。
「お前、うなされてたぜ」まだ状況が把握できていない様子の友人を上から見下ろし、フォードはにやつきながら言った。
「そうなのか?」アーサーは目をこすった。「悪い夢でも見てたのかな」
 アーサーはベッドの上に身を起こしてどんな夢を見ていたのか思い出そうとしたが、浮かんでくるのはぼんやりした黄色いイメージだけだった。結局、思い出さない方がいいかもしれないと決めて、ベッド脇に立つ友人の方に向き直った。
「ここで何してるんだ、フォード?」
 フォードは微笑んだ。
「お前と一緒に寝にきたんだ」
 アーサーは目をぱちくりさせた。急に、自分が本当に起きているのかどうか自信がなくなった。「なんだって?」
「お前と、一緒に、寝にきたんだ」
 フォードは微笑んだまま、同じ言葉を繰り返した。
 アーサーはもう一度意識を失いたいという強い欲求を感じたが、残念ながら彼の身体機能は、規定外の仕事を快く請け負うほど彼に親切にしてくれるつもりはないようだった。アーサーはゆっくりと部屋の中を見回し < 黄金の心 > 号の真新しい家具があるのを見て、自分が別の悪夢の中に迷い込んだのではないことを確認した。とはいえ、自分の家がくだらない理由でいきなり破壊されたかと思ったら故郷の惑星がこれまたくだらない理由で破壊され、逃げ出した先でひどい詩を聞かされ、宇宙空間に放り出され、という一連の災難を思い返すと、これこそ悪夢だと言うほかなかったが。
 辺りを見回し終わった後でおそるおそる元の場所に視線を戻すと、フォードはまだそこにいて、微笑んでいた。アーサーは気まずくなった。
「えっと」彼は口ごもった。「その、きみが夜を怖がるたちだとは知らなかったよ」
「いや、怖くないよ」フォードは元気に答えた。「おれはお前とセックスしたくて来たの」
 今度こそはっきり目が覚めたことを認識してアーサーは飛び上がった。
「フォード!」
「うん?」
「ぼくたち、友だちじゃないか!」
「そうだよ」フォードは狂人のようににっと笑った。「でも、次のステップに進んでもいいと思ったんだ」
「でもきみは男だ!」
 この言葉にフォードは笑うのを止め、少し不思議そうな目つきになった。
「ああ、知ってるよ」
「そうか」アーサーはもう少し頑張ってみようと思った。「じゃあ、ぼくも男なんだけどって言ったところで、きみは知ってるよって言うんだろうな」
 フォードはため息をついた。「ああ、それも知ってるよ、アーサー」
「うう」アーサーはうなった。「もういいよ。確認したかっただけだ」
 アーサーは頭をはっきりさせようと深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。起き抜けの頭に愛の告白は、まったくもってよろしくない。
「つまり、そういうことだったのか?」彼は呟いた。「きみが人類の中でよりにもよってぼくを助けたのは、ぼくを密かに愛してたからだって‥‥はは、どこのファンタジー小説だよ。これ題材にうちの局でラジオドラマが作れるんじゃないか」
 フォードは面食らったような顔になった。
「あ? あい? いや、それは違うよ。おれは単にお前がほしいんだ」
 アーサーは皮肉を忘れ、がばっと顔を上げた。
「何だって? それじゃ単にセックスだけが目的で?」
 思わず大声で怒鳴りながら、アーサーはどうして自分はこんなに大声で怒鳴っているんだろうと心の片隅で思っていた。フォードが自分を身体目当てで連れてきたからといって、傷つくいわれなどないのに‥‥全くだ、どこにそんな道理がある。だがともあれ、彼は傷ついたと感じていた。それも強烈に。
 多分、傷ついたのは友情を信じてたからとか、でなきゃプライドとかなんかそんなもんだろうと納得することにして、彼は言葉を続けた。
「きみはいったいぼくを何だと‥‥人を何だと思ってるんだ!きみら異星人にはまともな感覚を期待するだけ無駄なのか? ぼくから全てを奪っておいて、どの面さげて‥‥そりゃ地球のことはきみの責任じゃないさ、でも世界の終わりって知っていて、それできみのしたことといったら、ぼくを宇宙に引きずってきただけなんだ。すばらしい経験だよ、全く。自伝だって書けそうだ。『私は宇宙人のセックス・スレイヴだった!』とか言ってタブロイド紙にいい値で売れるだろうよ。あのなフォード、ぼくはきみのこと、ほんとに友だちだと思ってたんだぞ!」
 つかみかからんばかりの勢いでわめくアーサーに、フォードは目を丸くして、思わず両手で押しとどめるような格好になった。
「おれ、なんか悪いこと言ったか?」とフォードは、彼にしては珍しく狼狽の滲む声で言った。「セックス・スレイヴなんて、まさか、そんなこと思ってないよ!いや、そりゃそういう妄想はしたことあるけど、実現させようなんて思ってない!いや、多分おれ今嘘ついたかもしれないけど、つくつもりだったわけじゃないし!いやその、」
 しかし、アーサーはその時ふとあることに気がついて、それに気を取られていたので、途中からフォードの言葉をほとんど聞いていなかった。
「フォード?」と彼はついに相手を遮った。「きみ、英語をしゃべってないんじゃないか?」
 フォードは喋るのをやめ、困惑顔になった。「ああ。ベテルギウス語でしゃべってるよ。なんで?」
 アーサーはフォードの口元を指さした。
「きみの口を見てたんだが、時々口は動いてるのに声が聞こえなかったり、声は聞こえてるのに口は閉じてたりすることがあったんだ。香港映画を英語吹き替えで見てるような感じだ。いつも以上にぼくらの意思の疎通がうまくいかないのは、そのせいじゃないのか?」
「あ‥‥」
 フォードは「あ」の形に口を開けたまま硬直した。まばたきもせず、しばらく蝋人形を演じた後で、彼は遠慮がちに声を出した。
「うん、あー‥‥さっきなんて言った? おれがなんでお前を地球から助けたかって。そこ、実はわからなかったんだ」
 アーサーは少しためらった。
「その、きみがぼくを密かに愛してたからかって‥‥いや、ただの皮肉だよ」
「密かになんだって?」
「愛してたから、だよ」
 フォードは肩を落とし、長いため息をついた。
「オーケー、ちょっと魚をはずすよ。こいつが勝手に英語をベテルギウス語に翻訳しちまうんだ。やれやれ、こんな厄介が起きることがあるなんて知らなかった」
 彼は耳に指を突っ込むと、黄色いヒルのようなものをきゅっと引っ張り出して、鞄から取り出したボトルに押し込んでふたを閉め、アーサーのベッドにどさっと腰を下ろした。
「さて、これでもう大丈夫。おれ英語しゃべってるよな? うん、大丈夫だ。で、なんて言ってたんだ?」
 アーサーは限りなく間抜けになったような気分で、仕方なくもう一度繰り返した。
「愛してたからなのか、って言ったんだ」
「ああ!」フォードは叫んだ。「愛、って言ったのか!」
「なんだよ、なんて聞こえたんだ?」
 フォードは肩をすくめた。
「知らん。おれの知らない言葉だった。多分、うちの星では死語なんじゃないかな、それ」
 アーサーは目を見開いた。
「ベテルギウスには愛って言葉がないのか?」
「だから知らないって。おれはガイドの調査員だ。言語学者じゃない」
「でも、なんか似たような言い回しはあるだろ?」
 フォードはこの問いに、腕を組んで真剣に考え込んだ。
「う‥‥ん。多分。『愛してる』に、似たようなのがあることはあると思うな。でも、滅多に使わないよ」
「きみたちは、ガールフレンドとか奥さんとかに愛してるって言わないのか?」
「いや、言わないな」フォードは、正確を期そうとするように深く考えながら答えた。「好きだよって言うことはあるかもしれないけど。でもこれもすごく珍しい」
「でもそれじゃあ、恋人や奥さんに愛してることが伝わらないじゃないか」
 フォードは眉を寄せてアーサーを見た。
「そんなの言わなくてもわかるだろ? デートして、一緒に酒を飲んで、一緒に酔っぱらって、一緒にベッドに入るんだから。好きだからやるに決まってる」
「いやいやいや、その前だよ。その、せめて一緒にベッドに入る前。ほらたとえば、デートに誘う時はなんて言うんだ?」
「『一杯どう?』」
 アーサーはさじを投げたくなった。
「酒のことはいったん忘れてくれ!ぼくが言いたいのはつまり、きみが誰かに愛してるって伝える時になんて言うかだよ」
「何も言わないよ」
 アーサーが「どうしようもないな、こいつ」という顔をしたので、フォードの方もあきれ顔になった。
「いいか、アーサー、簡単なことなんだ。確かに、英語の『愛してる』に近い言い回しはあることはある。でも、ものすごく堅苦しい上に古めかしい言い回しだから、誰も使わないんだ。裁判とか、葬式とかでは今も使われてるけど、日常的には使わない。おれたちはたまさか出逢って、こいついいなって思ったら、お互いにそれがわかるんだよ。だから結局何も言う必要ないんだ」フォードは疲れたようにため息をついた。「おれにはお前らイギリス人が毎日毎日、愛してる愛してるってわかりきったことくりかえすのが理解できなかったんだけどな。それはまた別の話だ」
 この侮辱的な言いようにアーサーは口を尖らせた。
「なんだか、きみたちベテルギウス人は人の心が読めるみたいだね」
「読めないよ。たんに、感情の表現方法が地球人とは違うだけさ。言葉以外にも方法はあるんだ」
「へえ?」アーサーは疑いをこめて言った。「それ、言ってみてくれよ」
「何を?」
「その堅苦しくて、古めかしいやつをさ」
 フォードは、気が進まない様子で視線を宙にさまよわせた。
「ちょっと聞いてみたいだけだよ」アーサーは食い下がった。「どれくらい地球の『愛してる』に近いのか。言葉自体は使われなくても、結局その言葉の意味する気持ちをきみたちは何か特別な手段で伝え合ってるわけだろ? だから言ってくれたら、きみが何考えてるのかぼくにもわかる」
 フォードは何か考えるような顔で、なおも視線を宙にさまよわせ続けた。
 アーサーには知る由もなかったが、フォードの言った「言葉以外の感情の表現方法」というのは、顔色を変えてみせることだった。
 ベテルギウス星系の住民は、お互いちょっとした表情や顔色の変化で感情の機微を伝え合うことに長けている。自ら顔色をコントロールし、表情の明暗を調節することで細やかなコミュニケーションをとることが可能なため、本人達は気づかないが、時に言葉の方がおろそかになることがある。彼らはえてして他星系からの訪問者に無礼で思いやりが無くて良識の欠けた人種だと思われがちだが、それはこのコミュニケーション手段とは関係なく、ただ単に根っから無礼で思いやりが無くて良識が欠けているせいである。
 地球にいた頃、フォードは何度かアーサーの前で顔色を変えてみたことがあったが、全く気づいてもらえなかった。しかしこれは二人の文化的背景が違ったからではなく、地球人の身体機能の限界が原因だった。残念ながら、地球人の目には紫外色が色として認識されないのだ。
 もっとも、見えたところで、アーサーが薄い青紫色に上気したフォードの顔からその意図をくみ取るのは不可能だったことは言うまでもない。これは、純粋に文化的差異によるものである。
 地球の文化に通じていたフォードは、もちろん他の手段での誘導も既に試みていた。だがいくら一緒にパブに行って酔っぱらおうが、そのままアーサーの家に泊めてくれと押しかけようが、酔っぱらったふりをしてアーサーに後ろから抱きついてその背中に胸から膝までぴったりくっつけシャツのボタンを外したりしようが、アーサーはいっこうにフォードの真意を理解せず、寛大に苦笑してもう寝ろよと言うだけだったので、最終手段として今回直球のアプローチに出たのである。
 アーサーは言葉を切って、問いかけるような目でフォードを見ていた。フォードはしばらく気が進まない様子で視線を宙にさまよわせるという無言の感情表現を続けたが、やがてそれはアーサーには通じない、もしくは通じていても無視される運命にあることを理解し、諦めてため息をついた。
「わかった。言ってみるから。どんな風に聞こえるかお楽しみだ‥‥」
 アーサーはフォードの唇に注目しながら、その言葉を聞いた。唇の動きからすると、その文章はエレベーターガールの「上へ参ります」に負けず劣らず短く単純なものだったようだが、アーサーがバベル魚の消化・排泄器官を通して聞いたのは、それよりもいささか長い文章だった。
「で?」フォードは気まずそうに頭を掻きながら言った。「言っとくけどな、こんなことわざわざ言うの、めちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ。たとえお前にはニュアンスはわからないってわかっててもな。‥‥で、なんて聞こえた?」
 アーサーは首をひねりながら答えた。
「『きみがほしい、そしてきみにもぼくをほしいと思ってほしい』だって」
 フォードの顔がぱっと輝いた。
「それだっ!」
 彼は満面の笑みを浮かべて派手に指を鳴らした。
「そうか、言われてみりゃ確かにそういう意味だ。まあ、完全にそのとおりだとは言えないが、でもかなり近いぞ。いいな、それ!全然堅苦しくも古めかしくも聞こえないぜ。むしろなんか間抜けな感じだけど、でも英語なら簡単だな。アーサー、きみがほしい、そしてきみにもぼくをほしいと思ってほしい」
 アーサーははしゃぐフォードを無表情で見つめていた。フォードはふとそれに気がつき、アーサーの肩にぽんと手を置いた。
「アーサー? おれ、お前に言ったんだぜ?」
 ワンテンポ、間があった。
「なんだって!?」
 アーサーの声が裏返った。彼は、いったいベテルギウス人はこの言い回しを葬式のどんな場面で使うのだろうと考えていたところで、何が原因でこんなことを話し合っていたのかすっかり忘れてしまっていたのだ。フォードは期待に満ちた目でアーサーを見ていた。
「そうさ。で、返事は?」
 アーサーは言葉を見つけられず、無意味に口をぱくぱくさせた。突然、心にパニックが津波のように押し寄せてきた。
 フォードは彼の沈黙を承諾と解釈したらしく、右手を伸ばしてアーサーの頬に触れた。アーサーは息を呑んで、咄嗟に身を引いた。フォードは前に身を乗り出した。アーサーはまた身を引いた。フォードはまた身を乗り出した。もう一度身を引こうとして、アーサーは自分がベッドの上で、もうぎりぎりまで身を引ききってしまっていたことに気がついた。フォードは、獲物を追いつめようとしている捕食生物の慎重さでベッドに膝をつき、今や両肘で身体を支えているアーサーを見下ろした。
 フォードの鋭い眼光に射すくめられながら、アーサーは懸命に頭を働かせようとした。なんとかしなければ。なんとかこの招かれざる沈黙と、気のせいかもしれないが這い寄ってきはじめたように思える名状しがたいロマンティックな空気を追い払ってしまわなければ。
「あ、あの‥‥フォード」
 アーサーはかすれ声で言った。
「なんだ、アーサー?」
 フォードはアーサーの鼻先で囁いた。
「その、」アーサーはごくりと唾を飲み込んだ。「ぼくは‥‥ぼくにはわからない。ほんとに、わからないんだ。どう考えたらいいのかもわからない。しばらく考えさせてくれ。頼む」
 アーサーの驚いたことに、この言葉はフォードに奇妙に作用した。彼はたちまちアーサーを解放し、ベッドから立ち上がった。
「いいよ」フォードは言った。「考えてくれ」
 アーサーは目をしばたいた。「は?」
「考えさせてくれ、って言ったろ。だから考えてくれ、って言ったんだ。おれ英語でしゃべってるんだぜ、アーサー」
「あ‥‥」アーサーはつっかえた。「ああ。うん。どうも」少し考えて、「えっと‥‥いいのかな、それで? その、きみにとってちょっとばかり不都合だったり、わずらわしかったりとかしない?」
 フォードはいつもの平然とした顔で肩をすくめてみせた。
「おれはなにも、お前に無理強いしようってんじゃないんだよ。お前がこれまで同性に対してこれっぽっちも興味を持ったことがないのはよくわかってる。だから気にしなくても、もう少しくらい待てるさ。おれはお前がほしいし、お前にもおれがほしいって思ってほしいけど、それはお前に自発的に思ってほしいんだ」
「いやでも、考えたからといってきみの気に入る答えが出るとは限らないんだけど」
「でもまあ、ちょっと急いでもらえるとありがたいかな」フォードは何も聞こえなかったかのように言葉を続けた。「またいつ宇宙空間に放り出されるようなことがないとも限らないし」
 それは何気ない、ほんのつけたしのような一言だったが、アーサーを再び青ざめさせるには充分だった。彼の脳裏をヴィジョンが走馬燈のように駆けめぐった。上も下もなくどこまでも広がる宇宙空間。身体の芯まで一瞬で凍りついてしまいそうな、凄まじい冷気。ちっぽけな炭素系有機生物一個体の能力ではとても把握しきれない、おそろしく巨大なものに呑み込まれていく無力感、そして泣きたくなるような虚無感。
 人生で一番長かった29秒間。アーサーはぶるっと身震いした。
「あのさ、ちょっと聞いておきたいんだけど。ああいうのは結構よくあることなのか?」
 フォードは、前線に派遣された一日目にして自分がどうやら望ましくない場所に来てしまったらしいことに気づいた新兵をあやす上官のような目つきでアーサーに笑いかけた。
「ヒッチハイカーの世界へようこそ」
 そう言ってフォードは片手を差し出した。うながされてアーサーが同じようにすると、彼はその手を握って力強く上下に振った。そして離そうとしなかった。彼は好意と悪意が入り交じったような危うい目つきで、ジレンマに耐えるようにアーサーの手をじっと見つめた。不自然な無言の時間が二人の間に広がった。やがて居心地の悪さに耐えられなくなったアーサーが何か言おうと口を開きかけたその時、フォードがすっと身体をかがめて、アーサーの指先に軽くキスをした。
「おやすみ、アーサー」
 そして彼は出ていった。



 ドアのたてた恍惚としたため息のエコーが消えていくのを、アーサーは聞くともなしに聞いていた。部屋に一人取り残され、彼は急に心細く寂しい気分になった。今のはいったい何だったんだ。自分は本当に起きて、フォードと話をしていたんだろうか。交わした言葉は彼の頭の中でどれもこれもあやふやになって、まともな意味を為さなかった。一つだけ、はっきり記憶に残っていることを除いては。
 アーサーは暗闇の中で閉じたドアをぼんやり眺めながら、フォードの唇が触れた指を口元に当て、三語から成るその記憶を心で何度も反芻した。
 彼は、ぼくを、ほしがってる。



End.





 note:

 フォード、戦術的撤退(笑)。今はこれが限界か。
 最初は単に異文化コミュニケーションって難しいよねというだけの話だったんですが、ラストの方でなんかテーマ変わっちゃいました。
 海外のガイドフィクに影響受けまくってるのが自分でわかるので、不服なところも多いんですが、今回でその影響は使い切ったことにして次はもっと自分なりのキャラ造型ができるようになりたいです。

 2006.5.11. (In homage to the late great DNA, may he rest in peace.)